平成11年11月11日生まれ(10歳になりました!)の我が娘を語る親ばかサイトです。

子育てを通して父と母が思ったことや学んだことなどをちょっとずつ紹介していきます。

1999年11月アーカイブ

1999年11月 1日(月)

入籍

今日Shokoが一人で区役所に婚姻届を出しに行く予定だった。が、僕がうっかり署名せずに会社に出かけてしまったため、11/1入籍を断念せざるを得ない状況に。念のため区役所に何時まで受け付けているか聞いたところ、婚姻届は夜間でも受け付けているそうで、Shokoと待ち合わせ、阿佐ヶ谷のデニーズで署名して、ついでに夕食を取ってから区役所に行き、夜9時に入籍を済ませた。

区役所から荻窪の我が家まで秋風に当たりながら、二人で歩いて帰った。ここ1ヶ月Shokoが毎朝散歩している道だ。歩きながら今日の出来事について話す。

夕方、Aクリニックに呼び出されたShokoは、やはり早急に帝王切開をすべきだと説得されたそうだ。予定日まで待ってもし万が一何かあった時(破水など)、手遅れになる可能性がある。そうなる前に、一刻も早く、というわけだ。

頭で理解はできるが、感情的にどうしても納得がいかない。何のために苦労してレントゲンまで撮ったのか?というA先生への不信感もつのる。うさも予定日までには元に戻るかもという一縷の望みも捨てられない。よく話し合って、明日二人で来いと言われたらしい。よし、俺がばっちりA先生を説得してやる。まかせとけ!

1999年11月 2日(火)

説得

朝、そろってAクリニックへ行き、Shokoが昨日されたのと同じ説明をもう一度二人で聞く。

逆子での経膣分娩がいかに危険か、時間が長引くと酸欠で脳までやられるとか、万一破水した場合、頭で塞がっていないため羊水が出てしまい、手遅れになる可能性が高いなど、図まで使って説明されると、昨日の勢いは何処へやら、すっかり弱気になり、説得されかけている僕だった。

少し時間をもらい、別室でShokoと話す。Shokoもすっかり説得され、もはや帝王切開は止むを得ないで意見の一致を見た。しかしやはり、うさが自力で戻るという一縷の望みだけは捨てきれず、予定日の10日まで猶予をもらいたい、手術は11日でとお願いした(別に11月11日生まれに拘った訳ではないのだが)。

A先生には、逆子の手術が予定日より後なんて聞いたことがないと呆れられたが、それでも帝王切開の決断をしてくれて嬉しいと言ってもらった。ただし、手術までは安静にし、遠くへ出かけず、何かあったら即刻緊急手術をすると約束させられた。そして1日も早く手術する決心ができたらいつでも来いとも言われた。

さんざん足掻いたあげく、結局帝王切開することになり、どんよりとしている二人のところに、こっそり麻由美さんがやってきて、「明日、いいお産の日っていうイベントがあるんだけど、行かない?」と誘ってくれた。A先生には遠出をするなと釘をさされていたが、イベントには産科医や助産婦が大勢いるから、万一何かあっても大丈夫と明るく言われ、気分転換に行ってみることにした。

1999年11月 3日(水)

イイオサンの日

今日は文化の日だが、1103(イイオサン)の日でもあるらしい。全国の助産婦さんの有志が集まって開いているイベントだそうだ。

Shokoと僕、麻由美さんと3人の子は新宿駅で待ち合わせ、会場の大井町へ向かった。イベントは講演あり、育児関連の書籍や育児グッズの出店あり、体験コーナーありの盛りだくさんな内容で、思った以上に充実していた。ラレーチェ・リーグ(母乳育児の会)の講演は、とても参考になった。具体的な内容は忘れたが(だめじゃん)、ちょっとウルウルしてしまったことを良く憶えている。うさも母乳だけで育てられたら良いなあ。妊婦や乳幼児を連れた母親(それも出産育児に積極的な)が一堂に会して気のパワーが集まっているのか、こちらまで出産や育児に関しての意欲が高まってくるような気がした。Shokoとふたり、昨日までのかなりへこんだ気持ちもずいぶんと楽になり、
「 来て良かった。来年はうさと3人で来ようネ」
と肯き合うのだった。

ちなみにこの日、麻由美さんに逆子が直るホメオパシーのレメディを処方してもらい、 結局直りはしなかったものの、うさがグニグニとお腹の中で動き回り、Shokoはこのときホメオパシーの威力を初体験したのだった。出産後Shokoがホメオパシーに傾倒していくきっかけとなる出来事だった。後に、あれを3日間続けたら本当に逆子が直ってたかも、とShokoは遠い目をして語ることになる。

1999年11月 4日(木)

光明

Shokoが整体に通っている松ヶ丘治療院に併設されている松ヶ丘助産院の宗先生から電話があった。整体の先生の話では非常に調子がよく、出産に適した体になっているというのに、帝王切開しなければいけないとはもったいない。ついては、松ヶ丘助産院が提携している代官山育良クリニックの浦野先生に、受け入れてもらえないか相談してみてくれるというのだ。

なんという天から降ってきたような救いの声。育良クリニックは自然出産で定評があり、逆子でもよほど問題がないかぎり経膣分娩をするという。ぜひお願いしたいというと、ただ浦野先生は超多忙で、不機嫌なときに話し掛けると絶対断られるので、育良の助産婦さんにお願いして先生の機嫌のいい時を見計らって話してくれるとのこと。そして今日は休診日なので、明日直接出向いてお願いしようということになった。A先生には悪いが、経膣分娩できるならこの際、転院してでもという気持ちだったので、一も二もなくここは宗先生にすがることにした。

1999年11月 5日(金)

転院

朝9時半、僕は会社を休み、Shokoとふたり、恵比寿駅西口で宗先生と待ち合わせる。浦野先生のアポはまだ取れていなかったが、取れ次第すぐに会いにいけるように育良クリニックに近い恵比寿駅で連絡を待つことにしたのだ。宗先生とはこれが初対面なのだが、こんなに親身になってくれるとは涙が出るほどありがたかった。麻由美さんが浦野先生とも面識があるので、担当助産婦としてShokoを紹介するという形をとることになったのだが、なかなか麻由美さんから面会OKの電話がこない。次第に不安になる二人を尻目に宗先生は、すぐ会えるように育良の傍まで行っていようと、恵比寿駅から育良クリニックに向かって歩き出す。10分ほど歩き、そうしてとうとう育良クリニックの目の前まで来てしまったところで宗先生の携帯電話が鳴る。麻由美さんからだ。しかし電話の内容は思わしいものではなかった。麻由美さんから大体の事情を聞いた浦野先生は、A先生の紹介状とレントゲン写真を持って来れば会う。それが無ければ会わないと言う。目と鼻の先まで来ているのに、出直さなければならず、わざわざ来ていただいた宗先生に申し訳なかったが、何はともあれ、会ってもらえることにはなったので一安心、一旦荻窪に戻り、Aクリニックに行くことにした。だがA先生に事情を話すのはちょっと気が重かったので、自然と二人とも足取りは重くなるのだった。

Aクリニックに着いて、順番を待ち、診察室に入るとA先生は満面笑みでとうとう決心してくれたかと話し掛けてくる。 実は・・・と切り出し、事情を説明すると、一転、A先生は鉄仮面のような無表情になり、
「いいですよ、僕は喜んで紹介状を書きますよ」と、お荷物が片付いてせいせいすると言わんばかりの調子でおっしゃる。Shokoと僕は恐縮しながらも、その場で書いてもらった紹介状とレントゲン写真をもらい、Aクリニックを後にした。これで育良に断わられたらもう、自宅で自力で産むしかないねと半ば自虐的になりつつ、再び恵比寿に向かった。

やっとのことで浦野先生との面談が叶った。超多忙の浦野先生、昨夜もほとんど寝ていないそうで、予想を上回る不機嫌さだった。まず診察してもらい 、その後二人で話を聞く。浦野先生曰く、A先生の帝王切開という判断は適切であり、本来ならこんなこと(予定日直前に受け入れること)したくないが、レントゲンを見ても胎児の大きさを見てもこれなら経膣出産は可能なので、今回は特別に受け入れてくださるとのこと。

(よかったァ・・・)

体が軽くなるほどの安堵感。そしてShokoの喜びは僕のそれの比ではないだろう。ここ数日間の重苦しい気持ちが一気に晴れ、出産に向けて目の前が大きく開けたような、希望に満ち溢れた気分。浦野先生にお礼を告げ、二人はスキップせんばかりに家路についたのだった。

1999年11月 7日(日)

バースプラン

育良クリニックでは事前にバースプランを提出し、可能な限り希望に沿ったお産をしてくれる。うちは骨盤位なので制約が多く、全て希望どおりとは行かないだろうが、せっかくなのでめいっぱい書くだけ書くことにした。以下は育良のフォーマットにしたがって書いたバースプランの下書きから抜粋。

お産についての考え方
妊娠、出産、育児は日常生活の中にある出来事と考えています。妊娠中もお腹の中で育児をしているという気持ちで子供とともに過ごしてきました。主役は赤ちゃんであると考え、赤ちゃんの主体性を尊重したいと思っています。自宅での出産を希望していましたが、逆子が直らないのであきらめました。自分の産む力と子供の生まれようとする力で行うお産、人為的な助けを出来るだけ借りずに、静かな落ち着いた環境で事前の流れを待って進むようなお産ができれば嬉しいです。
お産のためにしていること
毎日:
1時間~1時間半、他に目的を持たない散歩(早朝)
30分~1時間、ストレッチ、逆子体操
お灸。三陰交と至陰に各9回ずつ
オイルマッサージ
3~4日に1回:
シャワラーによる腸洗浄(便秘対策)
週に1回:
松ヶ丘治療院での整体
K鍼灸治療院での鍼灸指圧治療
食事:
糖分、酸化した油分を摂らないようにする。
温野菜を中心にカルシウム、鉄分、ビタミン類を多く摂る。
毎朝、温野菜を多く摂る。
夕食は軽めにする。
その他:
TV、読書はせず、目を使わないようにする。
できるだけ歩くようにする。
入院、出産に関する希望
可能な限り子供と過ごす。
母乳のみで授乳したい。
分娩後の子宮収縮剤の注射はどうしても必要なのでしょうか?
できれば薬を使いたくないし、他の方法で代替できればそうしたいです。
夫と担当助産婦の麻由美さんに立ち会ってもらうことが希望です。
夫の宿泊を希望します。
出産後の様子次第でできるだけ早い時期の退院を希望していますが、可能でしょうか?
分娩後、臍の緒をすぐに切らず、血液が流れなくなってからにして欲しい。
胎盤が自然にはがれるのを待って欲しい。
赤ちゃんにすぐ乳首をふくませたい。
産湯をつかわせずに、体を拭く程度にして欲しい。

結果的にほとんどの希望をきいてもらえたので、このバースプランは書いた甲斐があった。これはとても良いシステムだと思う。希望どおりにならないことはちゃんと事前に説明してくれる。子宮収縮剤の注射のみ、出血の多い場合は必要といわれた。なお、会陰切開はしないというのも希望だったのだが、これは逆子の場合は必須と最初の説明で言われていたので、バースプランには書かなかった。

予定日まであと3日!うさ、待ってるぞ。

1999年11月10日(水)

破水

11月10日、いよいよ予定日である。僕は今日から2週間産休をとり、いざ出産に備える。が、一向に陣痛が来る気配も無いようだ。僕は一応妊婦のパートナーらしく気を利かせて「何か食べたいものあったら、買ってくるよ」などとやさしい言葉をかけてみたりすると、Shokoは「焼きイモとキムチとコージーコーナーのケーキ」と遠慮会釈なくのたまう。 これまでの摂生はなんだったのかと半ば呆れつつも、素直に従い、ひとっ走り買い物に出る。

Shokoはバクバクと焼きイモとキムチとケーキをあらかた平らげ、この異常な食欲がもしかして予兆?などと思ってみたりもしたが、やはり陣痛はやってこないまま、夜もふけゆく。うさはお願いした通り、明日になるまで出てこない気らしい。整体の先生にも多少陣痛がきても痛みが寝られる程度なら朝まで寝たほうがよいと言われていたので、二人顔を見合わせ、「寝るか・・・」となる。

が、ベッドに入ってしばらくした頃、Shokoが突然がばと起き上がり、トイレに駆け込む。何事かとドキドキしながら僕も起きる。トイレから出てきたShoko、

「破水した」

それが何を意味するか。陣痛の前に破水したら自然分娩は諦めなければならないという暗黙の了解。 せっかくここまで頑張ったのに…という虚脱ムード満載で、Shokoは育良へ電話、僕は荷物の準備をする。至急来いとのこと、時計を見ると23時15分。今からタクシーを拾って行くと育良に着くのはもう11日かなどと漠然と考えながら、青梅街道までタクシーをつかまえに走る。

さいわいすぐにタクシーはつかまり、家の前まで回してもらう。Shokoは乗り込むやいきなり横になり、運転手さんはさぞ驚いたろうが、事情を察するといろいろ気を使ってくれ、ありがたかった。タクシーの中で、とりあえず麻由美さんに連絡しておこうと電話すると、これからすぐ来てくれるという。申し訳なかったが、不安だったのでこれもありがたかった。

1999年11月11日(木)

誕生!

育良クリニックに着くと、時計は0時をわずかに回っていた。

入院費1日分浮いたと不謹慎なことを考えつつ、Shokoの診察結果を待つ。浦野先生は相変わらず不機嫌そうで、羊水が少し濁っているが、子宮口はまだ指1本分しか開いていず、もう少し様子を見ようということになった。即手術かと思っていただけにちょっと胸をなでおろす。入院部屋は8畳くらいの和室で、家族も泊まれるようになっている。

助産婦さんが、陣痛がそろそろきつくなってきたShokoの背中をさすってくれたりしながら、多分朝までかかるから旦那さんは少し寝たほうが、と言われるので、お言葉に甘えて素直に寝ることにする。僕はとにかく夜に弱いのだ。ちょうど麻由美さんも到着し、早まって呼び出したことを詫びる。

ちょっとウトウトしていると、何やらばたばた、どうも心拍モニターが上手くいかないらしい。助産婦さんが子宮口の開きを確認すると、何といきなり全開という。急遽分娩室へ。本来ならこの部屋で自由な形で分娩もできるのだが、Shokoの場合は骨盤位ということで、分娩台での出産を余儀なくされている。あわただしく分娩室へ入るが、勝手がわからず居場所の無い僕に、助産婦さんが分娩台の脇に椅子を用意してくれる。 このとき1時45分。家を出てまだ2時間半しかたっていないのが信じられない急展開だ。

僕は椅子に座ってShokoの手を握る。Shokoの陣痛はとても激しくなっているらしく、呼吸の合間に悲鳴が混じる。助産婦さんが「とっても上手」とか「もうすぐだよ」とか励ましの声をかける。僕は何か声をかけたのか、それとも息を詰めて見守っていたのか全く憶えていない。ただ、もうすぐって言いながら後何時間もかかったりするんだろうなあと思っていた記憶はある。そうこうしている内に浦野先生が呼ばれ、浦野先生の手によって会陰切開される。会陰切開は無しが希望だったが、これは逆子のため止むを得ないという。浦野先生のはからいで麻由美さんがメインの助産婦に。この辺からもう何がなんだか憶えていないが、とにかく。

あっという間に、うさは出てきた。3時11分。

おんなのこだった。

麻由美さんの手で、うさがShokoのお腹の上に。

感動。

浦野先生に「利き手はどっち?」と聞かれ、いきなりで戸惑いつつ、僕は左利きなのでそう答えた。助産婦さんに左手に手袋をされ、はさみを渡される。僕がこの手で臍の緒を切るのだ。しかし臍の緒はゴリゴリと硬く、なかなか切れない。僕は確かに左利きだが普段はさみは右手で使うのだ。大体このはさみだって右利き用だし。何とか苦労して臍の緒を切る。出産に立ち会ったんだという実感が湧いてきた。

しかし男の子と信じて疑わなかったうさが、よもや女の子だったとは…男の子だと思っていたので心の底に封印していた『本当は女の子が欲しかったんだよーん』という本音が渦を巻いて湧き上がり、猛烈に嬉しかった。きっと、男の子だったとしても猛烈に嬉しかっただろうけど。

助産婦さんに「カメラは持ってきてないんですか」と言われ、あわてて部屋に駆け戻って鞄からカメラを取り出し、分娩室にまた駆け戻る。うさにフラッシュを浴びせては可哀相と思い、フラッシュ無しで撮ったのであまり良い写真が撮れなかったのは残念である。一応、出てきた胎盤も撮った。さすがに分娩室で胎盤を食べるわけにもいかないので、これは諦める。

胎盤は小さく、500gしかなかった。うさの体重は2536g。Aクリニックのエコーでは2850gと言われていたので予想外に小さかった。エコーというのはあまりあてにならないようだ。Shokoは楽に産めるようにできるだけ小さく、でも保育器入りにならないように、2600gで生まれてきてねとお願いしていたので、うさは、ちゃんとお願いを聞いてくれたわけだ。そして、11月11日に生まれてねという僕のお願いも。今思うと、ふたりのエゴたっぷりのお願いを聞いたためにうさがお腹の中で苦労したんじゃないかと猛反省。次の子がもし生まれるときには「自由に好きなように生まれてきていいよ」と言いたい。

なにはともあれ、無事生まれて本当に良かった。破水からわずかに4時間、入院して3時間。この間にちょこっととはいえ寝ていたワシって…後々Shokoに言われ続けるんだよなあ、薄情な奴って。

逆子ということで、あんなに大騒ぎしたのが嘘のように、うさはあっさりと生まれてきた。母子手帳の分娩所要時間の欄には2時間43分と記されているが、実感としては2時間もかかっていないと思える。大体、出産時刻の3時11分から2時間43分さかのぼった0時半ごろには、僕は助産婦さんにまだまだかかるからと言われて、ひと眠りしようとしていたのだから。終わりよければすべて良しということで、今までの苦労は一瞬ですべて良い思い出に変わった。たまたまラッキーだったといえばそれまでだが、やはり帝王切開を選択せず最後まで自然分娩にこだわってよかったと、あらためて思う。

検査などもひと通り終わり、部屋へ戻る。育良は母子同室が基本なので、うさも一緒だ。家族も泊まれる部屋をお願いしたので、親子三人で寝られる。麻由美さんは始発で帰り、また午後来てくれる事になった。タオルに包まれたうさを眺めながら、僕は幸せな気分で布団に入った。疲れていたのか一瞬で眠ってしまったように思う。看護婦さんが1時間ごとに様子を伺いにきてくれるので、熟睡はできなかったものの、朝まで寝てだいぶ疲れは取れたようだ。Shokoはほとんど寝ていないようだったが、気が張っているためか疲れた様子は見えなかった。やはり母は強いのだろうか。なりたてでも。

さて、早朝Shokoの実家とぼくの実家に無事生まれたと電話を入れた。Shokoの両親は東京に住んでいるのでお母さんがすぐ来てくれることになった。病院ではぼくの食事はつかないので食べ物を買ってきてもらって助かった。

Shokoもパンとサラダの朝食を取り、落ち着いたところでぼくは一旦うちに帰ることにした。受け入れの準備をしつつ、あちこちに報告のメールを出した。やがて次々にお祝いのメールが返ってくるのが何とも言えず嬉しかった。

夕方退院用の荷物を持ってまた病院に戻る。今日一晩泊まってお許しが出れば明日退院するつもりなのだ。明後日の予定の検査を無理を言って明日にしてもらった。Shokoは1日も早く家に帰って過ごしたいと言う。別に病院の居心地が悪いって訳ではないのだが。

夕食は和食で、非常に美味しかったらしい。ぼくは駅前で買ったフレッシュネスバーガー。昨日(というか今朝)あまり寝てないせいもあり、食後はすぐ横になることにした。でもうさがしょっちゅう泣くので眠れない。Shokoが乳首をふくませる。出ているのかどうか知らないがチューチュー吸っている。うーなんて可愛いんだ。でも深夜3時ごろ、あんまり泣くので看護婦さんが来て「ちょっと見ましょうか」といって連れて行ってしまった。ぼくらはすぐ戻ってくるものと思って起きて待っていたが、全然戻ってくる気配がないので諦めて寝た。結局朝(6時過ぎ?)まで帰ってこなかった。おかげでゆっくり眠れはしたが、ちょっとさびしかった。

1999年11月12日(金)

退院

起床。この部屋でもう何日も暮らしているような気がする。和室に布団なので病院という気がしない。旅館に泊まってるみたいだ。お風呂もついているが、分娩前に入るひまがなかったので結局一度も使わず。おむつを洗って干した以外は。

午後、近所に住む友人に連絡し、遊びに来てもらった。何か欲しいものは?と言うので水を買ってきてと頼んだら、2リットルボトルを1ダース買ってきてくれた。今日退院するとは知らず。

検査も無事済み、問題なく退院のお許しが出た。夕食をどうしますかと聞かれ、Shokoはおずおず

「食べてからでもいいですか?」

よほど食事が美味しかったらしい。どのみち渋滞を避けたいので遅いほうがいい。

で、夕食も済ませ、荷物をまとめて退院の準備。shokoは「いいお産の日」で買ったスリングでうさを抱く。水は入院してる方々に分けてくださいと置いてきた。浦野先生は仮眠中だそうで挨拶できなかった。ぼくは外へ車を拾いに出る。

うさが車の中で泣いたりしないか心配だったが、おとなしく寝ていたのでひと安心。乗ったタクシーは運転手さんが途中までメーターをあげるのを忘れていて、料金半額くらいですんでしまった。ラッキー。

家に着いた。ようこそ、うさ。楽しい我が家へ。



©1999-2009 shoko & imasa , io-p.net