いおぴーの学校は

2005年12月02日

いおぴーの来年の動向について主に「学校、どうするの?」「学校、決まった?」というような問いかけで聞かれることが多い夏から秋にかけてのこの数カ月ですが、実はあまり考えていないのですよ。あまりっていうか、きちんとそのことを考えたりしていないのです。

ここでこうありたい!ていうのも特にないし、どうするかの幅があまりに広くて、しかも自分の生活そのものもそれによって大きく変化せざるを得ないというこもあり、ぜんぜん消極的。もー「流されて2」って感じ。(いや、得に深い意味はありません。)

ずっとホームスクーラーにするつもりだったし。私が面倒を見るわけじゃないけど。imasaが「おとう学校」で過ごしたいなら、今でも基本的にはそれでいいかと思っています。ただ、はらっぱ園に通っていて、この数年間の園での生活によって学校へのレールがいおぴーのなかですっかり出来上がっているので、それが難点です。もう次は学校しかありえないって感じになっています。

私の中でのあれこれは、どれくらい幅が広いかというと、寺子屋的なものを立ち上げることとか、三鷹プロジェクトを蒸し返すとか、タイの田舎の学校へ行って遊んで暮らすとか(バンコクにヴァルドルフ学校があるらしいのでそれもいいかも)、インドでクリシュナムルティの学校に行くとか、バンクーバーとかNZヴァルドルフ学校もいいなとか。やっぱり暖かいところで日本語が通じたほうがいいから沖縄かな、とか。沖縄には、行ったことないんですけどね。

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漠然とそんなことを思っていつつ、現実のエネルギーに流されて結局今のところ、やったことは藤野シュタイナー学園に願書を出しただけです。あ、あと伊達にも遊びに行きましたが。その時に、いずみの学校の校舎をちょろっと見せてもらいました。友人が京田辺にいて話をいろいろ聞いたけど、結局遊びに行くこともなく、横浜シュタイナー学園とか賢治の学校とか国立のとか見に行くのかな?と思っていましたが、行かないままに来年度の募集は皆終わっているような状態です。

関東の冬が本当に嫌いなので、藤野に住むなんてあり得ないのですが、知人も多いし、コミュニティとしてさまざまな経験を経ているし、なんといってもワイリーコヨーテさんのお傍に。という気持ちから願書を出して、親が2回、子どもが1回面談に行きましたが、先日不合格の通知が来ました。やはりご縁は、無かったようです。シュタイナー教育的にみたら、ぜんぜん違和感ある親ですし、ワシ。

目覚め過ぎているいおぴーの脳もヴァルドルフ学校では、問題児。でもだからこそシュタイナー的な教育の場が必要だと思うんですけどね。現代の一般的な教育の場では、いおぴーのような子どもは、きっとクラス運営に利用されるか、嫌がられるかどちらかだと思うから。自分でどんどん頭を使って学んでしまうのをまっとうな意味で問題にしてくれる場が必要だとおもうんですよ。いおぴーには。

はらっぱ園での3年間で実際にねじが緩んでいくいおぴーをみて、教育の力をいやがおうにも実感させられているのです。そして、せっかく育てたこの「阿呆」をこのまま大切に育てたいわけです。失うのは簡単ですからね。でもって、そもそも頭をどんどん勝手に使ってしまう場が我が家にあるわけですよ。なんかシャープさというか突っ込んでいく感じが。だからこそいおぴーがそんな娘としてわが家にいるんだと思うのですが。

いおぴーもきっといろんなことを心配しているんだろうなと思いますよ。かーちゃんが身勝手な呆けで、何時いなくなるかわからないとか、まーいろいろ。ああ。なんか書いていて呆れてきました。親失格な自分。(涙)

大きな希望は、これまでずっと周りの人や場に恵まれてきたということですかね。いおぴーが持って生まれて来れた徳だと思います。おかげさまでそんなひどい親の元に育ちながらも、いおぴーはこの世の中や命を信頼して、安心して生きているように見えます。公園でもしょっちゅう知らない人とおしゃべりして、いつのまにか自分の遊びに巻き込んでいるし。彼女にとってこの世界はとても安全で、安心して自分でいられる場のようです。

そしてはらっぱ園という素晴らしい環境でどんどん頭のねじも緩んでいるし。今、時系列がバラバラです。先生にも「若返りの水を飲んでいる」と言われています。本当にこんなことがあるのですね。この経験がなかったら、教育の力というものの価値を本当には解らないでいただろうと思います。命はどんな環境であっても善く生きるものだということだけを思っていたし、どんな環境でも幸せに生きると思っているので。でもだからといって「教育の力」という実に大きな刺激のことを考えなくてよいということでは無いですね。まー結局は、常に我が家にとっての最善は、そして必然が何か?ということでしかないとも思いますが。その辺は、健康を考えることと同じかな。

藤野シュタイナー学園から不合格の通知をもらうのは、ある種の権威から否定されるようなことで、矮小な私は何か切り捨てられるようなショックをどこかで受けています。が、実際のところ、自分のcentre of the caseにフォーカスすると捨てられて当然というか、そこにこの物語の中心がないのだから学校側も受け入れようがないのだろう。ということがわかります。なので心の奥底で自分でも気づかないくらい僅かに、そして落ち着きなく共鳴しているのは、学校がどうこうということとはまったく関係の無い、私の個人的な何かなのですね。なんだかどんどんと重箱の隅の小さな何かを掘り起こしていくことが、勝手に進んでいるんだなあ。これが超感覚への入り口となっていくのでしょうか。ほんとに?

私たち家族にどんな素晴しい場が用意されているのか、今の私には知る由もありませんが、ふさわしい場が用意されているのだという妙な安心感、信頼感のようなものが確固としてある。ので、すべてはおまかせで流れていくことにします。それにしてもどうしてimasaは、あんなに安心していられるのでしょうか。善き子ども時代をすごしたからでしょうか。人生や自分に対して、すんごい信頼しているんですよねー。私も占いで言われた座右の銘であるところの「果報は寝て待て」を忘れないようにしなくちゃ。

Posted by shoko at 2005年12月02日 23:56

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