はらっぱ園の親ミーティング

2005年06月28日

今日は、はらっぱ園の親ミーティングの日です。ウェブの話をするということで、imasaも午前中、会社を休んで初の親ミーティング参加となりました。

保育園時代は、父母共に同じ「親」として保育園にかかわっている感じがしていましたが、幼稚園てその性質上、親って「母」ばかりなり、という感じです。女子供の場なんですかね。どうも居心地が悪いです。

なので今日のように非常に例外的に父親が2名参加した親ミーティングは、妙に私をはしゃがせてしまいました。imasaが一緒で嬉しかったのでしょうか。そんな自分は、なんか犬みたいでイヤなんですが。

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以前、私がセッションを受けているホメオパスが、私1人のときと、imasaといるときとの様子があまりに違うので「ちょっとショックでした」と言っていたことがあります。「そこに私の居心地の悪さがあるんです。」とお伝えしたのですが、もしかしたらある種の健全さなのかもしれません。そんな自分に居心地の悪さを覚えるところに凸凹があるということで。

今日、同席したはらっぱ園の母たちは、今日の私を見てどう思ったかなー。

はらっぱ園も3年目となり、なかなか運営母体である保護者の緊張と新鮮さを保つのが難しくなりつつあります。はらっぱ園は、自主運営の幼稚園です。実に有機的な園であるわけですが、園舎を持ち、担任の先生がいる状態で日常を送っていると、そちらのほうが実体があるために、それが中心であるような錯覚を抱きやすくなってしまいます。そしてその日常を維持することが、園舎や担任の先生を維持することであるような気持になりやすくなってしまいます。

実は、それは本末転倒で、そうなってしまうとはらっぱ園は形骸化してしまって、たった12組の家族で集まっている園ですから、崩壊もあっという間です。

はらっぱ園の本質は、子供時代を十分に生きてほしいと願う保護者たちの集まりであり、その保護者たちによって作られている「場」こそがはらっぱ園の基礎でなのです。目に見えない、しかも固定しているわけではなく、常にダイナミックに揺れ動いているものですから、そこに常に意識を向けていないと、そしてcentre of the caseの重要さを理解できていないと、その日常を継続させていくのは無理だと思います。

とは言っても、非常に瑣末な日常のあれこれに追われている母としては、なかなかそのような意識を持つことは、難しいのですけどね。本当は。そんな形而上的なことではなくて、それこそが日常の本質だとは思いますが。でもそんな風に細かくフィードバックできるのは、私の場合は、ホメオパシーやフラワーレメディを学んでいるからだと思います。

特にハーネマンで学んだホメオパシー哲学は、私の指針となっています。

今、何が癒されるべきなのか?
物語の中心は何なのか?

ということが常に私の胸の内にあるようになって、ずいぶん私の無用な揺らぎがなくなっているような感じがします。
最初からぜんぜん、自分の本質しか生きていない(imasaのような)人もいるのでしょうけれど。

Posted by shoko at 2005年06月28日 23:20

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コメント

久美ちゃん  2005年06月29日 10:33

素晴しいことを維持するのって、大変な努力が必要なんですね。はらっぱ園の保護者の皆様、頭が下がります。
6・28は美乃里の10歳の誕生日でした。
じぃじ、ばぁば、お父さん、だれもいない私と二人の誕生日。
美乃里が好きなお刺身を一人分、アスパラとトマトで彩りよく、ってしたつもりでしたが、
「お母さんの作ったものが食べたかった・・・。」
といわれてしまいました。
く~っ厳しいのう、わが娘よ・・・。

shoko  2005年06月30日 15:55

久美ちゃん<
ふふ。つい熱く語ってしまったわ。でもほとんど自分に言い聞かせてんですよ。私の中に豊かな友愛精神とかきちんとした責任感とかが、ぜんぜん無いので。

みのりちゃん<お誕生日、おめでとう。無事に9歳の危機を乗り越えたのかな。それとも渦中にあるのか、それともimasaの日本人8年周期説にあるようにまだなのかしらん。

娘って厳しいよね。やっぱり。うちも先がちょっと怖い。今もすんごい重箱の隅をつつきます。「でも、いいんだよ。」と優しいけど。目のつけどころが厳しい。

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