ヒトが今、生きていること

2005年08月12日

昨日、ほぼ2週間ぶりにケーススタディのコンサルテーションを行いました。午前と午後に2組の方にお会いしまして非常に良い時間と場の共有をさせていただきました。

お話を伺いながら、合宿をはさんで自分が思いのほか変化していることに気がつきました。非常に今、グニャグニャに柔らかい状態です。明らかに変容している。たぶん目に見える変化じゃないのだと思います。その柔らかさは、繊細になっているとかそういう類のものではありません。青虫がいったんさなぎの中で溶けてしまうような感じですかね。印象としては。まあ、そのことについては私以外のヒトは放っておいてくれてOKみたいな状態です。

imasaの日記を読んでいて、ヒトのあり方について少し考えています。

ヒトがこの地球にどのように生きるのか。長い歴史の中で個人がどのように自分の使命を全うするのか。私なりにこの8日間で学んできましたが、未だ考察中です。

「人間が生物進化の失敗例だ」として、間違うことが出来るのがヒトだしそれを成長の糧にして成長するのがヒトです。

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地球の歴史が46億年位だとして、人類が生まれたのが300万年前くらい、ホモサピエンスになって3万年ほどの歴史があるといわれています。急激に人口が増えだしたのが、この200年余りです。星としての地球の寿命は100億年程と言われているので、この星に生きる生物としては地球の寿命の真ん中あたりに生きていることになりますね。

恐竜のようにその種の命を鳥や爬虫類などに大きく形を変えてつなぐものがいるように、ヒトの今後は種の絶滅を含めて計り知れない可能性があります。因みに恐竜の歴史はおよそ1億5千万年間位だと言われています。そう考えると人類の歴史3万年て誤差の範囲に入ってしまうくらい短いのですね。

ヒトが存在してからの歴史を振り返ってみると2000年くらいの周期でヒトの社会は動いているそうです。そうやって見ると今はちょうど新しい周期に入るところです。新しい周期への変化の時期というのがもちろんあって、それはおよそ400年ほどだそうです。今は変化の時期を250年ほど過ぎたあたりで、あと150年ほど変化の時期を過ごすことになります。そのような時代に私たちは生きているわけです。

1. 子供を守る・育てる
2. 食べるために働く

それは私にとっては

1. 次世代を育むこと
2. 生きるために活動すること

としたほうがしっくり来ます。そこにヒトのごまかしがあるとimasaはいうのかもしれません。(ちょっと関係のない話ですが、ここ数年間不食のヒトって150人くらいいるそうですね。私はもっといるんじゃないかと思っていますが。)

「生き物として病んでいる」状態の私たちが今後、どうなって行くのか。まず病んでいる状態を充分に生きてからじゃないと変化できません。私自身、今この時代に生きているさまざまな教育の弊害を自分に感じていて、そこからより善き自分のあり方を自分のうちに見出し直す作業をしているところです。その過程でより多くの間違いを冒すのかもしれません。

長い歴史の中でたった100年あまりの私の時間をどのように過ごすのか。どのようにこの世、この時代に貢献できるのか。どのように私が生き生きと毎日を過ごせるのか。かなり遠回りしていますが、その時間を入れてもそれが私にとっての必要最小限の時間だったとしか今の私は理解できません。

「希望を持って自覚的にひとつずつ「正しい選択」を重ねていくこと」が「今の自分」を出発点にしなければ、新たな抑圧を生むことになります。それを無視してショートカットはできません。

今が変化の400年中であることを考えると、もうすでに目覚めてとっくに次の時代を生きている人もいるでしょうし、過去の2000年の価値観の中で人生を終える人もいるでしょう。それぞれのヒトがこの時代を自分の役割を持って生きることしかできません。その役割や生きている時代に自覚的になれることが望ましいのはもちろんです。

地球がヒトを生み出し、存在が続いていること。それはその必然に於です。現代のヒトのあり方も、それしかない状態として、そうあるのでしょう。それを自覚して、なぜ今、皆が癒されたいのかということを日常の中に見出したいと思います。そしてなぜ私がこの道を歩んでいるのか、自分の役割を実感したいと思います。私になされた刷り込みが、私を生物としてその本質(imasaのいう1・2であるのかもしれません)を生き生きと生きさせないのだと気がついて、今、その軌道修正中なのです。私もまた人類の長い歴史の極小さな、けれどもこの世に存在する以上、なくてはならないヒトコマですから。

imasaにしたらヒトの日記をネタにぜんぜん関係ないこと書かないで!って感じでしょうか。彼の文章を触媒にして私の中に生まれたあれこれでした。

Posted by shoko at 2005年08月12日 11:18

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コメント

imasa  2005年08月12日 11:56

何を考え、何を書くのも自由です。

ただ気になるのは、私にとって、私にとって、私は、私は。自分中心で考えている限り、話は噛み合わないでしょう。

> 「今の自分」を出発点にしなければ、新たな抑圧を生むことになります。

今の自分を出発点にしている限り、抑圧は存在します。
「自分」という意識が抑圧そのものだからです。
「自分」なんて脳が生み出す錯覚で、この世には存在しないということに気づくことからはじめるべきです。

shoko  2005年08月12日 14:34

>「自分」なんて脳が生み出す錯覚で、この世には存在しないということに気づくことからはじめるべきです。

この文章をどのように受け取ったらよいかわかりません。きっと直接説明してもらう必要があると思います。

imasaが理解して語る世界があることが「自分」と「自分にとっての世界」ではないのでしょうか。

もし「自分」が錯覚の産物であったとして、すでに自分が自分の世界の中で存在しているのであれば、そこから自分を手放すことを進める必要があるのではないでしょうか。

「OK、じゃ自分はないことで」と抱えている自分を無視することが、新たな抑圧と私が書いたことです。自然に自分を抱える必要がないことが望まれます。

imasaと言う個人がimasaにとって何なのか?この家族にとって、この社会にとって何なのか?ということを確認したいです。このまま文字でのやり取りでは無理だと思います。

shoko  2005年08月12日 15:00

うーん。健全な意味に於の「神の羊」でありたいなあ。この宇宙の無我なヒトコマ。無私の貢献。いのちの働き。そして喜び。

imasa  2005年08月12日 16:01

わしは哲学してるのであって自分の世界を語っているのではありません。

わしは家族にとっては家族の一員だし、社会にとっては社会の一員です。
世界にとっては世界の一員です。
そして、自分にとって自分が何であるかという問い自体が無意味であるというのが現時点での中間報告です。

shoko  2005年08月12日 17:27

imasaが語る以上、それはmasaと言うフィルターを通した言葉です。imasaというフィルターを通した世界です。自分の世界と言うことではなく。

もちろん深く深く哲学されたところには、そのフィルターが強く影響しない言葉が語られるのでしょう。

だからこそ深く洞察された言葉は多くの人の心に染み渡り、人の行動や世界観を変えるのでしょう。

私のdelusion(私のフィルターを通したこの世界。私にとっての客観的世界)の中では、imasaの哲学は、きっと誤解されているのでしょう。

Kozy  2005年08月13日 22:33

うーん、夫婦でソコまで深く議論できるのは、すごいな~(#^_^#)尊敬するかも~☆

最近読んだ本の中に、人格や自我でぶつかりあっても、存在の深い結びつきに立ち戻って愛を祝おうね☆なんて事が心に残りました(^-^)。

それぞれ違うから、人生面白いですよね☆
自我や人格でバトルして、ますますお互いを磨きあってくださいませ~(^o^)/

shoko  2005年08月14日 09:13

Kozyさま<
ワシらは、大学の同ゼミ夫婦なので、まー気軽に話が出来る間柄といえましょう。でも私がたいてい感情の人なので、ほとんど話がかみ合いませーん。

私は「私」を追及することで無私を目指しているんですけどね。それを捨てるところからimasaの話は始まっていますからね。

夜、その話を少ししましたが、お互い眠くて終わりました。っていうかimasaが眠さのあまりやる気をなくて私を置き去りにしました。(怒)。

RYOKO  2005年08月26日 13:02

わたしもたまに旦那といろんな話をします。
で、よくあるパターンが、旦那が先に眠ってしまうこと。
わたしが話しているのに……!!
ますます頭が冴えて、わたしは逆に眠れない夜を過ごすことになります。
子どもができてからは、そんな機会も少なくなりましたが、大きくなるにしたがい、また増えてくるのかな。

shokoさんが、置き去りにされてしまったところに反応してしまいました。

shoko  2005年09月19日 20:59

RYOKOさま<
レスが遅くてすまんです。
たいていは私が眠くて先にはなしをきかなくなるんですが、今回は確かimasaが「そんなこというなら調べてやる」っていってネットを検索したりしているのを待っていたら、ぜんぜんその後、話がなくて、私も寝ちゃったりしながら、でも待っていたのにあまりに話がないから声をかけたら「ああ、寝てた」とか言われてムカつきましたよ。待っていた私が馬鹿って感じに無視されたんで。チコリーな私です。でも最近imasaの中にチコリーをみますね。ちやほやされたいんだな、とか思って。そうだ、占いでもちやほやしなさいって言われていたんだった。

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