昨日書いたことをさらにつきつめて考えたところ、2の「食べるために働く」というのも、本質的には不要に思えてきた。周りに食べ物があふれていれば、食べるために働く必要もないし、shokoにいわせると食べなくても生きてる人もいるらしいし、そもそも、食べようが食べまいがいずれは死ぬわけで、食べることが生きることの本質にかかわるというのは違う気がする。必要があれば本能が知らせてくれるから、必要に応じて食べる。食べ物が無ければ探す。手に入れるために働く。それだけのことだ。睡眠と基本的には変わらない。睡眠は自己解決できるが、食事は外に求めなければいけないというだけの違いだ。
というわけで、生きる本質は、「子供を守り、育てる」これに尽きる。これは子を持つ親だけに限らず、すべての人がそのための役割を担って生きている。
いきなりつきつめた結論だけを書いても訳がわからないとshokoをはじめ、多くの人(といってもそんなに多くの人は読んでいないと思う)が思ってるだろうから、こう考えるに至った過程を書く。
まず、大前提としてあらゆる生命の中で、「人間だけは特別」という考え方は否定する。今の時代に限れば人間が他の生物に対して絶対的な権力を握っているという以外に、歴史的に見ても生物学的に見ても人間を特別視する理由はどこにもない。神様に似せて造られたからというのも無しで。
人間を含むすべての生命体は遺伝子という共通のシステムを持っている。自分の子孫を残すためのシステム。人間もゾウもカエルもミジンコも基本的には同じ目的を持つシステムで動いている。人間だけが違うことをするために生まれたと考えるのは不自然。こうした考えをもとに、人間の生きる意味は他のすべての生物が生きる意味と共通であるはずと考える。
次に、「生きる」というのは命があるということだが、その時、では命の最小単位は?と考える。普通は自分の命、いおぴーの命と個人が単位となるが、自分のからだの一部、細胞一つ一つも生きているわけで、それぞれ同じDNAを持っている。なのに、爪や髪の毛は切って捨てるのは平気で、爪や髪の命を大切にとは言わない。もちろん自分の体を傷つけるのは良くないとされるが、それも細胞の命を尊んでいるのでなく、個人の命の一部という考え方だろう。つまり、自分の命を維持するために小さな命を消費して生きているのである。別にそれが悪いことだと言うつもりはなく、それが「生きる」ということだ。
では、逆に自分の命よりも大きい単位は無いのだろうか。生まれ、自分の役割を果たし、死んでいく個々の人間を細胞に見立てれば、人類全体が個人の命を代謝して生きる大きな命と言えないか。実際、アリやハチのように集団そのものをひとつの生命体とみなすほうが自然な生物もある。人間が個人を単位とする理由は、脳が考えているから脳を単位にしているに過ぎない。もし個々にモノを考える大脳でなく、個々の個体をテレパシーで結ぶ能力を発達させていれば、命の単位は人類(もしくは社会)という単位になっていたかもしれない。
この考えをさらに敷衍させると、人類という区切りは矛盾を孕んでいることに気づく。すなわち、では人類という命の誕生はいつなのか、という問題である。猿人と人類は別の命なのか、類人猿は?となる。個々の命が子孫を産み、代謝することで大きな命が生きているとするなら、どこまで遡ってもひとつの命である。人間は原初生命の誕生から現在まで生き続ける大きな命の一部として生きているのだ。
人間が生きるということは何か、自分が一個の細胞だと思ってみれば自ずとわかる。大きな生命を生かすために生き、子孫を残し、死んでいくこと。それだけだ。そんな人生はつまらないと思うかもしれない。(実際、わしもどうしてもそう思ってしまう)が、そう思っているのは実は「自分」の脳だけであり、脳で考えないでいられれば、それだけの人生に大いなる幸せを感じられるかもしれないのである。というか、本当の幸せとはそういうことだと思う。
コメント