生きるということをつきつめて考えた時、結局のところ
- 子供を守る・育てる
- 食べるために働く
これ以外は本質的に不要なのではないかと思った。これ以外の行動はすべからくこの2つに貢献するものであるべきだし、これ以外の行動をこの2つより優先させることは本末転倒である。生き物として病んでいる。
ところが人間は往々にして、これ以外のことにうつつを抜かし、それをして人間らしさと呼んだりする。そうだとすれば人間は相当に壊れた生き物と言わざるを得ない。
そのような人間は物事の判断基準が「正」でなく「楽・得」となっている。「正」はこの世の中すべてに対して理に適っている、きちんと整っているということであり、ありのままに生きれば自ずと正しい選択をするように生き物はできている。にもかかわらず、人間だけは自分の気持ち、自分の利益といったものに拘り、この世界にとって何が正しいかが見えなくなっている。「自我」というやつだ。
より良く生きるための道具として発達したはずの大脳だが、大きすぎると副産物も大きく、「自我」というノイズが本来の役割以上に人間の生き方を左右してしまっている。
煩悩を捨て、無我の境地に至ることは即ち脳を正しくコントロールするということだが、それが凡人にとって至難の業であるという事実は、巨大な脳を持つに至った人間が生物進化の失敗例だということを端的に示していると言える。人間の脳より象の鼻のほうが道具としてよっぽど優れている。
とはいえ、希望を持って自覚的にひとつずつ「正しい選択」を重ねていくことが、人間なりの今を生きる意味なのだとも思う。
とうちゃんはひとまず、冒頭に挙げた2つに自覚的に生きてみよう。
コメント
本質的に不要と言うことが、どのようなことなのかよくわかっていませんが、多くの哺乳類がする「遊び」が本質的に不要とはとても思えません。
ヒトがこの地球にどのように生きるのか。長い歴史の中で個人がどのように自分の使命を全うするのか。私なりにこの8日間で学んできましたが、未だ考察中です。「食べるために働く」をどのように理解したらよいのか。imasaの書いたことは間違ってないけど合っていないと私には感じられます。たんに私が誤解しているだけなのかもしれません。近いことを考えているだけにそのすれ違っている部分がクローズアップされるのでしょう。
本質的に不要というのは、それがなくても「生きる」ということは成立するということです。
動物は「遊び」を遊んでいるのではなく、ただ「生きて」いるだけです。それに、子育てや食料探しより遊びを優先する動物なんて、人間を風刺する物語の中にしか存在しません。
人間から見ると「楽しそう」だから「遊んで」いるようにみえるのです。
ただ生きているのが楽しそうに見えるのは自我ではなく本能の働きであり、その点はまだ救いがあるといえるでしょう。
ところが、人間は自我が育つにつれ、「ただ生きる」ということができなくなってしまった動物なので、「楽しむ」ためには「遊び」が必要と本末転倒に陥っていくのです。
自我が育つ前の子供は、「楽しそう」に「ただ生きて」います。
それを、いつまでも「遊んで」いるんじゃない、といってやめさせようとするのは自我が発達した大人です。
「食べるために働く」というのは、働くことの意味は食べるためにあるということです。
周りに食べ物が溢れているなら、働く必要はまったくありません。
働くこと自体に意義を見出だそうとしたり、自己発見だの自己実現だの言うのも、自我が拠り所を求めて足掻いているだけで、これも人間特有の病いといえます。
>とうちゃんはひとまず、冒頭に挙げた2つに自覚的に生きてみよう。
と言う発言は、今は「ただ生きて」いない状態なのですよね。「ただ生きて」いこうとしつつある。ということ?そしてそうなれば病む必要ももちろんないわけですよね。今後のimasaの心身を見守りたいと思います。そこにおのずと答えがあると思うので。